向かって左がアオイ、右がユズ
おむすびが天国へ行ってしまってから、私の心にはぽっかりと大きな穴があいてしまった。
事あるごとに、おむすびがいない、と思った。
今まで当然のようにそばにいたのに。
おむすびがいた時は、何気ない日常があんなにも幸せだった。
二度と飼うもんか
私は今まで大事な人を失くすと、伝えきれなかった言葉を思い返して後悔することが多かった。
だからおむすびが元気な頃から、私はおむすびに毎日言っていた。
「かわいいねぇ、おりこうさん。」「大好き。うちに来てくれてありがと」
するとおむすびは、ゴロゴロの音を更に大きくしてスリスリしたものだ。
それでもたくさんの後悔は残り、気持ちがぼんやりすることがあった。
仕事中にも、ふいに涙があふれてきて困った。
だけどおむすびは、私がいつまでもそんな気持ちでいて欲しいとは思ってないだろう。
それは頭ではわかっていた。
何ヶ月かそんな思いが続き、私は思った。
もう二度と、生き物は飼わない。
失って、こんなに苦しい思いをするのは二度と嫌だ。
私は三太に言った。
「もう二度と猫は飼わない。もちろん犬も」
得るもの、失うもの
でも三太の思いは違っていた。
三太はまた猫を飼いたいと思っていたのだ。
自分たちはおむすびをノラの生活から救って多分幸せにしてやれた。だからこれからも、1匹でもいいから猫を幸せにしたい、と。
三太の言うことは正論かもしれない。
幸せにしようとして、自分たちも幸せにしてもらったのだけど。
でもその正論の前でも、気持ちがついていかなかった。
こんな悲しさには二度と耐えられない。
私が頑なに猫を飼うことを拒否し続ける一方で、三太は仔猫の季節がくると里親募集のサイトを見ていた。
通りがかりにちらっと三太のPCを見ると、仔猫たちが映っているのが見えた。
そんな日々が続いた。
そして徐々に、私の心に「私はこれでいいんだろうか」という疑問が浮かぶようになった。
嫌だと言い続けて、家族の望んでいることを却下し続けていいのだろうか。
幸せって、自分も周りも両方幸せで成り立つ。
身近な人が幸せでなければ、自分が満たされていても幸せだとは思えない。
そして、失うことばかりを恐れていたら、得るものも限定されてしまう。
どうせいつかは、すべて失うのだ。
だったらもう、恐れるのはやめた方がいいんじゃないか。
そして私はやっと三太に、猫を飼ってもいいよ、と言うことができた。
天国のおむすびが焼きもちを焼いて、飼っちゃダメと言えば見つからないだろうし、いいですよと言えば縁があるだろう。
おむすびという名前だけに、次に来る猫はおむすびが縁を結んでくれる気がした。
それから、私たちの新しい家族さがしが始まるのだった。
おむすびを描いてくれました
さて、「箱入り猫と半ひきこもりのひびひび日記」のKukiさんが、うちのおむすびを描いてくれました。
いつもこんな風に、私たちの間にちょこんと座ってましたよ。
Kukiさん、ありがとうございます!
読んで下さりありがとうございます
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