猫とビー玉

猫に振り回される幸せとドタバタ日常。自作のヘタ漫画をまじえて綴ります。

おむすび編26. 猫の記憶はどうなっている?

 ネコの優雅な動作はもちろん、体のしなやかさには驚かされる。私にとってそれは憧れだ。

 

体の柔らかさを見た時は衝撃だった

 

クローゼットから秋物のジャケットを取りだそうとしたら、愛猫のおむすびに入られてしまったことがある。
うちのクローゼットの床には引き出しのボックスが置いてあって、ちょうどそのボックスと壁の間に入ってしまった。
突き当たったら行き止まりだから、出てくるのを辛抱強く待つことにした。
ボックスと壁の間が狭いからバックして出てくると思いきや、なんと頭から出てきたではないか。

この時、ネコの体がとても柔軟であることを知った。

 

20代の頃、ホットヨガの教室をお試し体験したことがあった。
じっとしていても汗が出てくるような高温多湿の室内でヨガをするのだが、座って前屈をした時、体のかたい私はつま先に手が届かない。
ウンウン言っていたら、先生が「これを足に引っかけて!」とタオルを投げてよこした。
おむすびの優雅なターンを見て、タオルを投げられて恥ずかしかったことを思い出した。

 

前屈する女

背筋を鍛える女

ストレッチを終わる

 

猫の記憶

 

思い出す、と言えば、ネコの記憶ってどうなっているのだろう?
庭を眺めているおむすびの背中を見ていると、自分を産んだ母ネコや兄弟姉妹ネコの記憶は残ってるんだろうか?という疑問が浮かぶ。
そして、前の飼い主に関する記憶はどうなっているのか?

 

近所の人からこんな話を聞いたことがあった。
「おたくのネコちゃん(おむすびのこと)ね、〇〇の通りの先の〇〇さんというお宅で飼われてたんだけど、ある日突然閉め出されて家に入れてもらえなくなったらしいの」
これは人の噂だから、真意のほどはわからない。
でも私が初めておむすびを見た時は首輪をしていたから、捨てられたことは間違いないと思う。
今でもその話を思い出すたび、私は強い憤りを感じる。
おむすびには、できたら捨てられた時の記憶は忘れていてほしい。

 

記憶はあまりあてにならない

 

記憶つながりの話をもうひとつ。
友人と食事をしながら「自分が書いてきた日記は、そろそろ処分した方がいいのかもね」という話をした。
いつ何が起こるかわからないから、残された家族のためにも自分で処分しておいた方がいいんじゃないか、と思うようになったのだ。


私が最近書いている日記は、ほとんどがネコのこと、そしてどうしようもない職場の愚痴だ。なんの気づきも、掘り下げもない。日記を書くこと自体もやめようかと思っていた。
でもこのブログを書き始めて、過去の日記を処分しないでおいて良かった、と思うようになった。

 

今書いている記事では、何年も前の私の体験をお話させてもらっている。( リアルタイム風に書いているので、遅まきながらここで告白 )
おむすびとの出会いから現在に至るまでの出来事も詳細に書いておきたい、と思ったらこんな感じになった。


その体験談は、私と夫の記憶だけではおぼつかないことも多く、一番頼りになったのは私の日記だった。
けっこう詳細に記録していて、まだ野良だった頃に呼びかけたらニャーと鳴いて走ってきてすりすりした、なんて書いてあるのを読んだ時は、すっかり忘れ去っていた出来事だったのでちょっと泣けた。

 

日記は事実を語る。読み返してみて、すっかり忘れていたことが頭の中で鮮明に再現されて、当時の気持ちがよみがえってきたりする。
また、事実を別の事実とごちゃ混ぜにしていたり、こうあってほしい的に脚色して覚えていたりする、ということにも気づいた。


流れていく年月のところどころで、人は記憶を都合良く塗り替えて、塗り替えた本人はそれに微塵も気づかない。
それが気分よく生きるための、無意識のテクニックなのかもしれないけれど。

 

人の記憶はともかく、ネコには辛い記憶は忘れてほしい。
リスク回避のために、嫌な記憶をすべて忘れるというわけにはいかないのだろうが、できる限りネコたちには、幸せな記憶で満たされていてほしいと、心から思う。

 

 おむすび編27に続きます

 

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