猫とビー玉

猫に振り回される幸せとドタバタ日常。自作のヘタ漫画をまじえて綴ります。

亡きものを想う春

大好きな猫



もう会えない人の存在

 

今年のお彼岸は、両親のお墓参りに行けなかった。

その埋め合わせに、紅茶をいれて 両親の写真立ての前に置いた。
うちの実家では、夕食後にいつも紅茶を飲んでいたので。

 

フレームの中の父と母を見るたび、私は「見守っていてね」と心の中でつぶやく。
苦しい時は、「どうしたらいいの?」と問いかける。
不安な時は、「助けて」と訴える。

 

生きている時はムカつくこと、イラっとすることがいっぱいあった。
放っておいてよ、と何度も思った。

でも空の上に行かれてしまうと、心の中で頼る存在に変わる。

 

人って身勝手。
そしていつも、寄りかかれるなにかを必要としてるんだな。

 

お供えもの

 

リビングのローボードのガラス扉の中には、おむすびのお骨やお花、お気に入りの置物なんかを置いている。

 

お骨と写真


いつもじゃないけど、ちゅーるなどのおやつをお供えしている。

 

ガッカリする猫


ガラス扉がないと、猫たちに横領される危険あり。

 

猫の会話


香りを食べるっていいますもんね。

 

猫の質問


おむすび「毎日食べてますよ」

せがむ猫たち

断る猫

おむすび「あなたたちにあげるのなら、食べれない子にあげます」

おやつの話

窓辺の猫たち

 


「千の風になって」という曲がありますよね。
とてもいい歌だと思うのです。

 

この詩のもとを辿ると、アメリカ発祥の詩『Do not stand at my grave and weep』が源詩なのだそうです。

 

私の墓の前で泣かないでほしい
私はそこにはいない 眠ってはいない
私はそよ吹く千の風
雪上のダイヤモンドの煌めき
穀物に降り注ぐ太陽
優しき秋の雨

『Do not stand at my grave and weep』より

 

この部分では、やけに納得してしまいます。
自然万物に神は宿るという宗教観があるけど、それに通じるものがあるような気がします。

自分の中に「亡くなったものは神様に近づく」みたいな感覚も あるのかもしれません。

 

 

 

父や母の声を聞くことは、もう二度とできない。

それでも気持ちが内に向かっている時、そこにいないのはわかっているけど 写真やお墓に話しかけてしまう。

お供えものもお墓参りも、亡くなった者のためというより、生きている自分のためなのでしょうね。

 

 

窓辺の猫たち
アオイ「ばあや(おむすび)は あのガラス扉の中で じっとなんかしてにゃいわよ」

 

だらだらする猫
ユズ「あちこちウロウロしてるよね」

 

猫の提言
アオイ「ちゅーるは あそこに置かなくてもいいにょ」
ユズ「ボクの手が届くところにしてよ」

 

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