猫とビー玉

猫に振り回される幸せとドタバタ日常。自作のヘタ漫画をまじえて綴ります。

祈り

記憶に残っている、あの日

 

どうしても忘れられない光景がある。

私は箱根神社にいた。

 季節は10月。
もう日が暮れていて、芦ノ湖から吹いてくる風は涼しいというよりも冷たかった。


鳥居をくぐり長いなだらかな坂道をのぼり、人っ子ひとりいない暗い本殿でお参りをした。

本殿をあとにして階段を下りていくと、湖に突き出た鳥居があった(「平和の鳥居」というらしい)。

 

暗く光る湖を背に、人影が見えた。
思わず立ち止まって、目を凝らした。

3人の男女が立っていた。


一瞬まぼろしを見ているのかと思うほど、3人は動かなかった。
手を合わせてこうべを垂れ、一心不乱に祈っていたのだ。

 

私はそれを見て、金縛りにあったみたいにしばらくその場を動けなかった。
その姿は切実で、静謐で、けれども鬼気迫るものがあった。

 


当時父を亡くしてまだ間もなかった私自身もまた、毎日のように祈っていた。

父が余命宣告されてからはもちろんのこと、父が亡くなった後も、身内のゴタゴタやひとり残されて病気の後遺症を抱える母、私自身の立ち位置やこれからの身の振り方など、考えなくてはいけないことが山のように積み上がっていた。

自分の心に雲がよぎるたび、「無事にこれを乗り越えられますように」と呟いていた。

 

あの時私を支えてくれた人たち、そして問題を乗り越えさせてくれた神様(がいるならば)に、私は今でも感謝している。

 

おむすびとの日々

 

コタツの下の猫
これは長年私が会社のデスクに置いて、仕事の合間に眺めていた写真のひとつ

 

ある年、京都の某寺を訪れた。
そこで私と三太は、生まれて初めて写経というものをした。

写経を書き終わった最後のところに、願い事を書く欄があった。

隣の三太を見ると、大きな字で「三太、えびね、おむすびが健康で楽しく暮らせますように」と書いていた。
達筆とは程遠い字だったけれど、すごく美しく見えた。

 

それから1年もしないうちに、私の祈る日々は始まった。
愛猫おむすびの具合が悪くなったのだ。

おむすびは猫エイズのキャリアだったから、私は幾度となく「猫エイズじゃありませんように」と祈った。
 

何回かおむすびを診てもらい、とうとう猫エイズの発症を認めざるを得なくなった。
おむすびがいなくなってしまう、そう考えると心がわなわなと震えるような気がした。

おむすびは日を追うごとに衰弱していき、残された時間は砂時計が落ちるように減っていった。

張りつめた心が、風船みたいに今にも破裂しそうな毎日だった。

そして最後の力を振り絞って頑張ったおむすびは、ある秋の日天国へ旅立った。

 

顎のせ猫
これは、家に飾ってある大好きな写真。三太の手にあごを乗せて幸せそう。

  

 

祈りは、聞き入れられないことも多い。

自分でも奇跡は起こらないと頭ではわかっているけれど、祈らずにはいられない。

普段お正月しかお詣りしなくても、神様を信じていなくても、乗り越えられそうにない大きな壁にぶち当たると人は祈る。

祈ることで、自分が少しでも救われるような気がするから。

 

誰かのために祈る、それは本当は自分のためなんだと、最近思うようになった。

祈ることは、人間だけに与えられた小さな救済のようなものなのかもしれない。

  

伸びあがる猫
「もっともっと、ヨシヨシしてー!」 かわいいなぁ。

 

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

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