「世界から猫が消えたなら」という映画を見たあとに、ふと思ったことがある。
それは子供の頃から抱いていた、自分ってなに?という疑問だ。
この問いは「宇宙の果てはどうなってる?」という問いと同じく、考え始めるとわけがわからなくなってくる。
ローボードは、甘えの儀式を執り行う場所
映画「世界から猫が消えたなら」
この映画の主人公は、佐藤健演じる郵便局員で若い一人暮らしの男性、キャベツという猫を飼っている。(キャベツがすごくかわいい)
病に侵され、突然現れた自分そっくりの悪魔に「お前は明日死ぬが、世界から何かひとつ消せば1日寿命を延ばしてやる」と言われて、自分の1日分の命と引き換えに世界から電話、映画、時計を順に消していく。
そして最後に、悪魔から猫を消すことを迫られる。
もっと身近な人を大切にしたい、1日1日をもっと丁寧に生きたい、と思わせられる映画だった。
見終わって映画の余韻が薄れ始めた時、自分って記憶なんだな、と思った。
この映画の中では、世界から電話が消えると人々の中にある時計にまつわる記憶も消える。
それが良い思い出であっても、悪い思い出であっても、あとかたもなく無くなる。
自分とは、もちろん肉体や性格でもあるが、頭の中を支配しているのは圧倒的に記憶と思考だ。
もし今までの記憶をすべて失ったら、私はどんな自分になるのだろう?
経験からかたち作られてきた考え方、成功体験に基づく自信や強気、失敗体験に基づく心配性や優柔不断などは、無くなってしまうのでは?
自分って空っぽの箱なのかも、と思った。
箱は、持って生まれた資質や環境。頑丈さや色は選べない。
でも、箱にどんな自分を詰めるかはその先の人生で変わる。
箱の中身を全部出して、敢えて空っぽになる。
時々苦しくなった時に、そんなことが息抜きみたいにできれば、少し楽に生きられるような気がする。
儀式
うちの愛猫のおむすびには、いくつものルーティンというか、日課がある。
私が帰宅してから、たっぷりと甘えるのもそのひとつ。
洗面所から出てきた私をいつもの場所へ誘導する。
いつものローボードに飛び乗る。
うるさいくらいに私を呼びつける。
その顔は真剣。
駆けつけた私にスリスリ、ゴロゴロ攻撃。
スリスリの時、私の手に牙が当たって痛い。
私はおむすびをほめちぎる。いい子だね、お利口さん、だーいすき、などなど。
するとおむすびのテンションはぐんぐん上がる。
富士山の頂上くらいまで上っていくおむすびの嬉しさが目に見えるようだ。
そしていつもこうなる。
私は撫でながら、おむすびが落ちないように自分の腹や足でガード。
毎度世話が焼ける。
おむすび編121に続きます
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